2011年3月11日。津波が押し寄せた街、津波が引いた後の荒涼とした大地。
その風景に大きな絶望感を抱き、その津波に流されて亡くなったたくさんの人たちが「もし生きていたなら」「もっと多くの人々を救えたのではないか?」 という、素直な願望を体現したのが『君の名は。』です。

こう書くと乱暴でしょうか?
誤解があるでしょうか?

しかし、そもそも隕石の落下で「街一つ「だけ」が吹き飛ぶ」なんてことはないはずです。
隕石の落下は、もっともっと甚大な被害を及ぼすはずです。日本列島そのものを危機に陥らせるような、時には地球規模の。
ところが架空の田舎街だけを綺麗に隕石は飲み込み、その範囲外の「××高校に住民を避難させればいい(住民は助けられる)」という計画が発動します(実際それは成功します)。

そんなことがあるでしょうか?

これはまさしく、津波が押し寄せた際、津波から逃れられる「高台や津波の範囲外の場所(町に再び戻って津波被害に遭った人も多いと聞きます)」のメタファーではないでしょうか?

僕はTwitterに、「骨だけの映画」というようなことをツイートしました。

『君の名は。』は、特に若いカップルに大人気だと聞きます。
実際僕がレイトショーに行った時も、若いカップルの姿がたくさん見られました。

それを考慮し、敢えて言うなら、『君の名は。』は非常に「コスパのいい映画」と言えるのではないでしょうか。
だらだらと描写だけが続き、「結局何を言いたいか分からない」という映画・アニメ・漫画・小説の類は多いと思います。ところが『君の名は。』は、ズバリ「言いたいこと(骨、構造)だけを言ってくれている」のです。

観る者は、そのまんま受け取ればいい。
隕石で荒涼となった田舎の大地は、3.11後の東北の大地だ。あの若い男女二人(瀧と三葉)は「(当たり前だが)恋に落ちるのか」。
大まかに考えるのはその二点でいい。乱暴に言ってしまえば。
その二点が「構造の中心」です。
残りの二人の体が入れ替わってお互いの体に驚き戸惑っている姿や、「瀧がバイト先の先輩に淡い恋心を抱いていること」や、「三葉が謎の巫女をしていること」や、三葉が高校の友達とつるんで発電所爆発事件を起こしたこと(しかし一介の高校生がどうやって?)などは、全て「余談」です。

若い受け取り手は、中心の二つの「点」だけを受け取れば、この映画の「描きたいこと」はほぼ受け取ったと言っていいでしょう。それほど単純で明快な映画と言って過言ではありません。
だから「コスパがいい」のです。
このコスパの良さが、若いカップルに受けたのかなと、僕は思いました。
今の若い人は何事にも「コスパ」を大切にすると言いますからね。

それにしても、瀧も三葉も、都合よく「忘れる」。
本当に都合よく忘れます、特に名前を。
どうして「名前だけを忘れる」のでしょう? 率直に僕には意味が分かりません。
ただ考えるなら「切なさの演出」としか思えません。
名前を忘れて、「君の名は?」と何度もリフレインしたほうが、絵になりますからね。
名前だけを都合よく忘れる「理由」も提示されません。

また本作は「空間の他に時間」も超えますが、これは物語の作り手なら「安易に逃げた手法」だと分かるでしょう。
もし「時間が同じ」なら、今なら携帯もネットも普及しているのですから、すぐに相手に電話なりメールをすればいいのです。
もし「時間の変更」がなければ、三葉なり瀧なりが相手に電話やメールしたとき「不自然になってしまう」。その「矛盾を埋められるだけの理由が思いつかない」という時、安い物語の書き手は(僕のように)、安易に「時間をずらして」しまいます。
本作はまさにその手法です。

そして「忘れる」で「忘れてはならない」のは、瀧は「3年前に既に三葉と会っている、ということをすっかり忘れている」ということ。
そんな馬鹿な話はあり得ないでしょう。
一度不自然な出会いをした少女の顔を、忘れますか普通?
こんな馬鹿馬鹿しい、まさに「記憶喪失か?」「若年性痴呆か?」と思われるような、「不自然な記憶喪失」が何度も起こります。
これは単純に、「憶えていると、物語に矛盾が生じるから」に他ならないでしょう。
本来物語の作り手は、物語の矛盾を埋める「工夫」をするものですが、その努力をせず、「時間軸を変える」「記憶を都合よく忘れる」という「安易に流れている」姿勢こそ、僕がこの物語を好きになれなかった点です。

ハッキリ言えば、この程度の物語構造なら、僕でも作れる。
だけど僕には「こんな作画は決してできない」。

つくづく、アニメというのは有利なんだなと思いました。
特にこんなに可愛らしい絵で描くと、全然違います。
小説では全然伝え切れませんね。


#君の名は。感想