時間があるので、久しぶりに手塚治虫の『火の鳥』を読み返していました。

まだ現在第2巻を読み終えたところですが、やはりすごいですね。

何がすごいって、スケールがすごい。

そして高等生物化したナメクジが文明を作り、その果てに民族の違いによって互いを絶滅させる戦争を起こし、最後に残ったナメクジが水を求めて彷徨いながら、永遠の命を火の鳥から授かり「神」のような存在となったマサトと会話するシーンなどは、どうしても今の病気の自分と生き残ったナメクジとを重ねてしまいます。

「死にたくない……死ぬのはいやだ」(ナメクジ)
「あなたがだれだかは知らないが、私だって命はおしい!!」(ナメクジ)
「長生きしてなにになるというのだ?なぜ命をそんなにおしむのだ?」(マサト)
「そりゃあ死んじまえばなにもかもパーになるからですよ……」(ナメクジ)
「私はおまえの先祖の下等なナメクジを知ってるが、おまえのように未練がましくはなかったし、グチもいわず死んでった。恥ずかしくないのかね」(マサト)
「イヤダイヤダ わたしゃそんな下等生物じゃない!!死ぬのがこわいんだ 助けてくれェ」(ナメクジ)
(手塚治虫『火の鳥』未来編)

 僕ら人間も猿から進化し、高等な知能を持ってしまったが故に、無意味な争いを起こしたり、死に異常なくらい怯えたりしますね。
 かと言って、もはや元の猿には戻れない。進化した生物の「定め」のようなものを感じます。
 第1巻では古代日本の人間が争いの果てに次々に殺されていって、そこにはまるで命の重みがなかったので、そういうことも思い出されます。
 でも争いがなければ、中央集権国家(ヤマト政権)は誕生しなかったし、日本という国もなかったかもしれない。

 今の僕も死にかけている高等ナメクジと同じ心境ですが、もし仮に「永遠の命」を授かったマサトのようになったとして、それが幸福なのかというと、どうもそうではないように思います。
 
 やはり手塚治虫の漫画は深いですね。